平成22年6月11日(金)晴れ
小説 水神の舞台
大石・長野水道と袋野隧道を訪ねて
福岡県 うきは市
今大人気の小説「水神」を読みたくなって町の図書館に行ってみた
受付で予約3人目ですと云われた
一人15日間借りられるので、大分待つことになった・・・・
そこで、本を読む前に水神の舞台である福岡県うきは市に出掛けて、現地を歩い
て 見ることにした
6月11日(金)と記事補足のため16日(水)に再度訪ねた
昔、筑後川の河口からし下筌ダムまでに架かっている橋をビデオに撮りに行った
事があり大石堰周辺は知ってはいた
その時と、筑後川の風景はあまり変わってはいなかった
パンフレットを見ながら大石堰~袋野隧道~長野水神社~江南小学校~
本松庄屋生家の順に回った
二回目の時は袋野隧道~長野水神社~角間天秤~五庄屋墓地を歩いた
この日は浮羽民俗資料館に立ち寄ったところ、運よく係りの方から現地を案内して
頂き有り難かった
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前篇
五庄屋と大石・長野水道
大石堰説明
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高見大石堰附近 地形図
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筑後川の中州祇園町A地点より上流に向かって、大石堰と右上大石取水口
水神社の杜を見る
右上 大石堰取水口と水神社
この地方一帯は筑後川の沿岸(左岸)にありながら、川よりも土地が高く水利が不便
で農民は貧困に泣かされていた
B地点より水神社の杜
寛文三年の大石・長野水道工事請願者名簿
発起人代表は高田村庄屋 山下助左衛門で、庄屋の年齢は18歳から
50歳代で平均年齢30歳代の若さで有った
五庄屋の他、周辺庄屋も名前を連ね協力している
寛文3年(1663年)9月、五人の庄屋と周辺庄屋が連名で有馬藩(久留米藩)に
筑後川からの取水水路工事 を願い出た
願書「大石、長野水道仕建新溝立願書」には工事費用一切を五庄屋で負担する
との決意も書かれていた
筑後川江南原に於ける堰渠造成請状之事
⇑ クリック拡大 小説 水神 ページ 267
よかよか。人切りに使うものでもなか。堰渠のための血判なら、脇差も
喜んどるじゃろ
⇑クリック拡大 小説 水神 ページ 268
又、長野村の入り口には磔柱が立てられ、工事の失敗は許されなかった
筑後川大石堰が築かれた場所
寛文4年(1664年)1月藩営事業として、五人の庄屋と農民が一体となり難工事
に取り組む
同年3月中旬、総幅員4間、川幅2間の大石.長野水道が完成
引き続き、寛文5.6.7年に亘り水路拡幅工事を施工する
その後、延宝2年(1674年)灌漑面積を拡張するための難工事が完成 し
大石、長野 水道事業は完了する
旧大石堰見取図
~
現在の大石堰
昭和28年(1953年)筑後川大洪水のため大石堰が破損 崩壊する
その後、新しく現在の大石堰が完成し、下流域の広大な美田、穀倉地帯が維持
されて 現在に至っている
工期 昭和29年~31年、工事費 3億4千万円で完成
左前、大石水道取水口と導流堤
現在の大石・長野水道を歩いてみた
大石堰取水口と水神社の杜
大石堰取水口
此処から大石水道が始まり、長野水道、角間天秤、北新川、南新川へと注ぐ
現在、浮羽郡、朝倉町の一部、久留米市大橋まで延び、延長148キロメートルで
路線は支線を分岐しながら104線にも及び灌漑面積は2,041ヘクタールである
~
水神社
大石堰横に建立されている
境内の三堰の碑
この碑は五庄屋の大石・長野堰及び田代大庄屋による袋野堰の偉業を讃えて
文政10年(1827年)11月、ここ大石堰辺に建立された
昭和28年大洪水
神社には昭和28年大洪水の水位が示されていた
この高さまで洪水が荒れ狂い、堤防が決壊し大水害をもたらした
この後、筑後川下流域では二階屋根の新築家屋が目立って増えた
大石堰当初に使用された石
28年大洪水で堰が崩壊、その後復旧されて不要になった当時の石 が積まれていた
五庄屋と農民の苦労が偲ばれる 巨石
大石水道下流の水路
写真 ア
この先、水道は拡大地形図 E 地点へ続く (写真6枚目イへ)
国道210号沿い道の駅 うきは から大石堰と長野水神社を示す
大石水道、長野水神社及び角間天秤附近 地形図
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長野水神社周辺拡大図 地形図
当初、大石水道からの流水は、右岸より隈上川長野堰に入り再び左岸の長野水門
に流入し 、長野水道となって角間天秤へと流れ下った
小説 水神(上) ページ142~143 に記述
下記地図・・・・・部分 で示す
d はA施設での余水を隈上川へ放水する排水口である
現在の大石水道はAより隈上川の下を潜りB点より再び地地上へ出て
長野水道となる
水路はサイフォンの原理を応用した珍しい地下水路である
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旧水路の写真説明
前方原鶴温泉
左岸 長野水神社
長野堰
長野橋少し手前に長野堰が建設され、昔は右岸から大石水道が隈上川に注ぎ込み、
一旦堰で止められた水は長野水門に入る
長野水門 (現在は存在しない)
水は車が止まっている場所の先yり長野水門に入り、再び長野水道となって下流の
角間天秤 へと流れ下る
(地形図及び隈上川写真に書き込み)
※教えてもらった事を勝手に地図に書き込んだので、少し位置が異なっていると
も思っている
昔の水路の書き込み(上記地形図)
長野堰
下流 大石・長野水道 ● ● ● ● ● 大石・長野水道
隈上川 に架かる長野橋(上流より)
寛文4年(1664年)長野水門が造られたが、水路変更の為撤去
長門水門に使用され石を利用して、長野水神社御手洗鉢となっている
写真 イ (アより続く水路)
大石・長野水道 E (地形図) 地点より下流方向
大石水道は、ここからサイフォンの原理を応用して隈上川と長野水神社の地下を
潜り、 再び地上に出て大石・長野水道とし下流へ水を運ぶ
A地点直前にて
取水口から直径2mのヒューム管3本を隈上川、長野水神社の地下に埋設して
導水している
又、逆流も防いでいる
此処より地下水道に潜る3個の吸水口
余水は手前の水門から隈上川へ放流される
隈上川への排水口
対岸は五庄屋を祀る長野神社
中央大木の場所が地形図A地点にあるサイフォン施設
長野橋から長野水神社の杜 を見る
隈上川
長野水神社
ここの境内地下を大石・長野水道ヒューム管が通じている
五庄屋を祀る社
大石・長野水道は隈上川と神社境内地下を潜り再び地上へ現れる
(地図A,B間の地下を流れている)
大石・長野水道工事に際し、長野村入り口に工事失敗時の五庄屋磔台が
立てられた
旧長門水門の天井石を使用した手洗い鉢
噴水台には五庄屋の家紋が彫られている
庄屋家紋
山下家 高田村庄屋
本松家 清宗村庄屋
重富家 今竹村庄屋
栗林家 夏梅村庄屋
猪山家 菅村庄屋
記念碑 前にて
境内で五庄屋に詳しい地元の人と出合った・・
江南の本松庄屋の生家など教えてもらた
記念碑
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長野水神社地下から再び姿を現した大石・長野水道 水
水神社横の水路
地形図 C 地点
遠くの中央大きな建物の横に角間天秤分水路がある
道路右側は筑後川、その対岸は原鶴温泉
角間天秤附近 地形図
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角間分水点の説明板
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角間天秤 分水路
小説 水神 (上) ページ 142 に記述
左 北新川 右南新川
北新川へ注ぐ堰
流量調整の為の3個の大石が水争いを象徴している
北新川
手前の水路は南新川
この川が主流である
角間天秤から見る南新川
全国疏水百選に選ばれた南新川風景
五庄屋の集落 地形図
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江南小学校近くにある本松庄屋の生家
江南小学校への道
⇑ ここ
江南小学校校庭に建つ五庄屋の碑
江南小学校校庭
碑には村名・庄屋名・墓地までの距離が刻まれていた
五庄屋の墓地 地図
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いたる所に支線水路がある
五庄屋の墓地を訪ねてみた
その中の1つ・・・・
山下庄屋の墓地
山下庄屋は大石水道開鑿発起者であった
山下庄屋の眠る高田集落から見る耳納連山
筑後川堤防より高田集落と、元助が堤防を駆け下りて水を汲んだであろう筑後川の
撮影を忘れていたのが心残りだった
水口の蓆の上に水がこぼれ、溝に流れ下る
オイットサ、エットナ。
また息を合わせて、桶を投げ下ろす
伊八と元助の掛け声が子守唄のつもりなのか、草の間に丸くなった権は、まどろみ
始めていた
小説 水神 上 最終ページ
国道210号沿いの道の駅 うきは より五庄屋の偉業を偲ぶ
後篇
田代大庄屋と袋野隧道
大石堰を訪ねて直ぐにアレと思った
大石堰からの大石・長野水道は筑後川沿いに、田園より下を流れている
ので、農業用水は何処から引いているのだろうかと疑問が湧いた
農作業をしていた地元の人に訊ねてみた
夜明ダムの袋野取水口から岩盤を掘削し、隧道を通して水を引いている
事が分かった
教えてもらった袋野隧道は、田代大庄屋親子が私財を投じ難事業を克服した
偉業だった
今、ここに広大な田園が広がっているのも、袋野隧道があるお陰だ
直ぐに袋野隧道(水道)に行ってみる事にした
田栄神社に車を停めて隧道沿いに袋野取水口まで歩いてみた
袋野隧道は大石堰水道開設より約8年遅れて寛文12年(1672年)3月に
田代大庄屋が有馬藩 に願い出て10月に起工し、翌年3月10日に完成したものである
詳しくはインタネット検索 第100話 大庄屋の夢 に詳しい記述がある
難工事であった事がよく理解出来た
田栄神社附近地形図
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旧袋野堰取水口は現在の取水口から約500m上流に建設されていたが
夜明ダム完成により水没して今は見る事は出来ない
隧道途中70から90mごとに工事に際して必要な穴を開けた
ABは写真撮影した穴で、もう一つ見つけた
田代大庄屋親子を祀った田栄神社
筑後川左岸の岩石約2.1kmを掘削した袋野隧道を、田栄神社から袋野取水口まで
案内標識に従って、上流の現在の取水口まで歩いてみた
袋野隧道は筑後川夜明ダム上流約500m地点に堰を築き、旧国道沿い下の
岩石を7千余尺 (約2.1km)掘削 し、 隧道を貫通させる難工事だった
筑後川
国道210に架かる袋野大橋、その上流に夜明ダムがある
写真右、筑後川左岸に沿って隧道が掘削されていた
何か所か地上に顔を覗かせる隧道 (地図B点)
水の流れが見える
此処の道の下に隧道が通っている
上流から田栄神社の方向を振り返ってみる
写真、真ん中右寄りに穴がありその上に神様が祭られていた (地図 A地点)
祠の下が隧道
薄暗い中にも水の流れが見える
此処の下も隧道が通っている
現在の筑後川からの袋野取水口
夜明ダムの建設で、今は旧袋野堰取水口は見ることは出来ない
袋野隧道は昔のままである
6月16日 再度、袋野隧道を訪ねてみた
隧道(トンネル)の出口探しのためにやって来た
今度は田栄神社から旧国道を下流へ歩くと、 数百メートルで旧国道の直ぐ下に
トンネル(隧道)の出口を発見した
田栄神社から数百メートル歩くと右へ下る道があった
坂道を少し下って、旧国道脇下にトンネル(隧道)出口 が有った
近くからは夏草が生茂っていて見えにくかった
下流から見た出口
筑後川から袋野隧道を潜った恵みの水は、支流を増やしながら三春・山北・隈上
・高見・ 古川地区の田畑400ヘクタールを潤し続けている
そこには吉井の大庄屋田代弥左衛門重栄と嫡子又左右衛門重仍の
私財を投じての袋野隧道工事の偉大な事業が有った
道の駅 うきは 展望所よりの展望
袋野堰隧道工事
寛文12年(1672年)6月初旬着工
同 13年3月10日完工(約9カ月余)
隧道掘削のため金鉱山の坑夫数十名を雇う
岩盤掘削にツルハシ使用のため、鍛冶屋を雇う
坑内の明りはサザエの壺に菜種油を入れて火を灯した
測量が未熟で方向を誤り数十箇所に、その痕跡が残っている
測量や岩石の運び出しの為に70mから90mごとに地上へ穴を開けている
隧道は馬が自由に通行するほどの幅員が有る
勾配の測量は高張提灯に火を灯し、進行方向に並べて竹竿の長さで測っていた
田代大庄屋屋敷
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巨勢川と田代家
帰りの車窓から見る耳納連山
でも、こんな史実も忘れてはならない事だろう
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これで、月末に読む水神の楽しみが又膨らんだ
案内して頂いたHくちさん有難うございました
ぼん天棒